小説、詩、戯曲を掲載しています。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
すっかり無人化したような、亡霊の一匹さえ電柱の濃い影で捕獲できても無論怪笑しくない、そんな深い穴ボコのような閨が、空中遊歩道の下に広がっている。暗闇はそれ自体、街灯の白熱発光を緩慢に恐る恐る強姦させつつ、絶え間なくわけのわからぬ魑魅魍魎の残影を、そこかしこに生じさせては、やはり霧消させるのでもある。僕は鞄にイェイツの詩集を入れて、手摺に両腕を小さく乗せながら、明日も均質に幕を開く監獄――あのカトリック系男子高校――を厭がっていた。黒く、しかし乳白色を帯びつつ片雲は三日月を隠して、いよいよ街に、ある特別な悪意に満ちた、何かきっと滑稽でもあろうところの虚無を、僕の意識の襞ひだに敷き詰めていく。空中遊歩道の広くそれなりに長い道は、中央に無垢な笑顔の子供らを模った石像を置いてい、僕は彼らを包囲した石質の円形ベンチに、鳩の夥しい糞を避けながらページを開くことをする。如実に性的な、かつ耽美的でもある一篇の詩を読むことで、僕は僕自身が不登校になってフリースクールを真剣に考えていた時代に、生徒相談室の片隅で出会った「Avril」のことを回想し、彼女が死んでしまったことを確固たる記憶として認めない頑固モノな僕自身を見出す。「Avril」という十七歳の南仏マルセイユ出身の漁師の娘は、長い黄金色の髪と、右眼の蒼い瞳、そしてけして動くことのない茶褐色の美しい義眼を持つ左の眼窩、と僕は急速にこうも真摯に彼女を想像する僕の頭をハンマーで叩き潰すようにして強靭に殴った。不意に、背後で丸っこい、けれど足があったらしい白い運動体が横切り、僕に「あー」という死んでしまう前のような曖昧な愕きの声を発することを強いたもの、それは子豚のように丸々と肥り過ぎた一匹の猫だった。僕は、僕自身のことを「彼」と呼称しつつ、「Avril」のことを考えた。
《 「彼」は夢見がちな生徒だなあ!なにせ、「彼」の脳内宇宙にしか存在し
ていない「Avril」のことを、「彼」は真剣に己と交際するに値するものと規定しているのだから!錯覚なんだなあ!「彼」は毎日、三人の「Avril」に陰茎を強制的に何回も擦られて射精ではなく、素晴らしい放尿をする夢を見つつ、現実でもしっかりオネショしてもいた!錯覚なんだなあ!「彼」はイェイツの詩集を音読しながら、イェイツが輪廻転生の信奉者であるに違いないと断定し(この浅はかな断定は的を得てもいる)、自分にも昔、別の自分としての長い長い生活があったことを涙ながらに夢想して、オネショして濡れに濡れたズボンの冷たさをニチャつく二本の指先で確かめながら、カーテンを素早く開く!全部、全部、全部全部錯覚なんだなあ!「彼」はアヴリル・ラヴィーンの歌唱能力に耽溺し、あらゆる事象をアヴリル・ラヴィーンの声色的に思考し、無我夢中でアヴリル・ラヴィーンの全曲を一日流し通すことでしか読書を継続できない己を知っている!「彼」はそこでこう結論を付けざるを得ない。すなわち、イェイツは生まれ変わってアヴリル・ラヴィーンとなったと!あの世界的に大ヒットしたアルバムの全曲は壮大な永劫回帰に関する暗号に満ち満ちており、少しでも彼がそれを解析しようものなら、たちまちアヴリル・ラヴィーンはこう素晴らしく官能的に絶叫して空前絶後な暗号破りの僕の手を止めるのだ!ヤケニナッタリシナイモン!チットモキニシテナイモン!アナタガナンテイッタッテ!ヤケニナッタリシナイモン!と。錯覚なんだなあ! 》
僕は夜の河川公園は野犬がうようよしているので怖く、以前二匹の、あまりにも眼だけは特別優しそうで気性のトゲトゲしくない犬ドモに、二十七分も汗みずくで追跡された挙句、尻と右膝をバクッ!と噛み付かれたことを根に持っている。それは激痛だったし、僕はナイアガラの滝よりもまだ膨大な量の涙を奇妙にも左眼(僕はどちらにも義眼を嵌め込んでいない)のみから流し続け、犬ドモに「ワオォン!」と、絶滅してしまったニホンオオカミのように哀しくも逞しい悲鳴を発して、彼らを撃退したのだった。その一部始終を傍観していた、東洋風アインシュタインみたいな顔面を首の上に乗せて笑う老人は、「そっ!そっ!そっ!」と得体の知れない笑い声を発しながらカエルのようにピョンピョン跳ねて、石階段を下っていったのだが。僕は今、彼の簡潔でありながら極めて爬虫類的な演技を完璧に実践しつつ、彼がかつて通って弓なりに唾を吐いていた階梯を一段、一段、また一段、さらにまた一段、そしてさらにまたまた一段!と飛び跳ねながら駆け上がるのだ。堤防の高い草叢の上に敷かれた幅の狭い歩道には、漆黒そのものの色だけがグリスを混合した黒絵具の水彩画のように滲んでいた。僕は周囲を俯瞰し、この街=<蟻塚>に長年住み続けている人間=<蟻>である僕自身の社会的機能は、<働き蟻>ではなく、むしろチョコレートの大山脈のみを掠め取っていく<泥棒蟻>に相違ないものと化すだろうと、今更のように眼に涙を潤ませて狭すぎる将来の門を悲嘆する。刹那、消火器が墜落して少女の頭がスイカじみて真っ二つに綺麗に割れた呪わしい事件を刻印する巨大な塗り壁じみた高層マンションの方から、ライトを宇宙船のように眩く燦爛と光らせた自転車がやって来た。彼女、そのレインコートを纏っている初老の女は、腰を真っ直ぐ直線形に伸ばしながら、性転換した老衰寸前の仏陀みたいな細い眼をさらに皺クチャに細めて、
――ちょっとね、通りますね!
と両肩を痙攣させながら極めて淑女らしく懇切丁寧に会釈していった。僕はイェイツの詩集をぎゅっ!と抱き締めながら、今の老婆の視覚に捉え得た全ての動作の総体を全的に巻き戻して、一から彼女を再びこちらへ来るように仕向けた。この皺くちゃのヴィデオ再生的な「第二の老婆」に、僕は彼女の後部座席に座らせる存在として、ウォルト・ディズニー社製の旧型ドナルド・ダッグを選択し、彼を静かに座らせることは不可能だと自覚しつつも、やはり紳士的に座ってもらうように架空の超大型拡声器を使って「コラ、動くな!」と絶叫する。次の瞬間には、頭部がパンパンに膨張した水風船みたいなドナルド・ダッグが遂に涙を流しながら大爆発し、彼の運び屋である「第二の老婆」の背中をアヒル色の脳味噌の欠片とふざけ狂ったケチャップで塗りたくった。僕はその幻を夢想することで、自分の精神が更に深く無限に続く井戸の底へ落ちていくような、眩暈と淡い嘔き気に襲われて、もう随分マンションからは遠ざかった「第一の老婆」と「第二の老婆」を融合させ、先刻の統一的な老婆に戻すのだった。僕は唐突だが、ここでどうしてもイェイツの「モル・マギーのバラッド」という一篇の詩の一節を、魂を込めて音読せねばならなかった。
《 わたしは赤ん坊のうえにねてしまった
かわいい子供らよ
つめたい赤ん坊に気付いたのは
しらじらと霜の朝になってから 》
僕は想像妊娠の末、三回妄想的な流産を経験してから呆れるほど粘着質な男性恐怖症に陥った世界的スーパー歌手「Avril」にこそ、この詩を眼前で一語一句余すことなく朗読してやらねばならないと自負する。
孤独で道化的な夜の一人歩きも半ばに差し掛かり、僕は圧倒的な運動不足から既に棒切れと化した惰弱な両足をパンパン叩きつつ、僕の最近入団した新興宗教団体のアジトへいつの間にか到着した。異端スウェデンボルグ派(予備的な知識として、この18世紀末に没した神秘思想家が、人間は死ぬと天国へ行くか、地獄へ行くか、自由意志によって決定できると説いたことくらいは認識しておいて戴きたい)に属性を持つこの団体の、紅い四つのテントが小さなサツマイモ畑を中心に放射状に広がるアジトは、河畔に群がる雑木林の内奥にヴィエトナム戦時下の野戦基地の如く密かに存在している。メンバーの大半は気狂いか、もしくは勤勉過ぎる輪廻転生説の信仰者であり、無論教祖であり薬品会社の体操風のcmで最近テレヴィ界にも進出しつつある十七歳の「キイチャン」も、同じく頻繁にナーガールジュナやヘラクレイトスやショウペンハエルの名を口にする筋金入りの永劫回帰の讃美者だった。僕はテントの前でしゃがみ込みながら咥えた煙草の先端に蚯蚓を巻きつけて微笑している同期メンバーの「G」に夜の挨拶を交わした。
――ああ!スズムラくん!よく来たねえ。じきに【 異端審問 】の会議は始まるよ!さあ、教祖のいるテントへお入り!
僕は軽く会釈して、団員の証である舌先のラテン十字形をした縫い跡を見せると、親切に先刻から手招きしていた数人のメンバーに肩を抱き寄せられながら、教祖のいるテントへと向かった。中はモンゴルの族長用ゲルのように広く、中央に一本の燭台が置かれ、更にその錆びた中央で黒人プロレスラーの陰茎よりも太い黒色の蝋燭が桃色の焔を揺蕩わせながらコーコーと燃えている。円形の空間は背丈の物凄く低い本棚に蜂の巣のように埋まりに埋まった無数の神秘主義的書物、哲学的書物、宗教的書物に溢れ、ビニールシートの床一面にも160センチの高さにまで無数の書物が積み立てられていた。その狭苦しく葉っぱ臭いテントには総勢十名の幹部連中が屯し、中央には我等の教祖「キイチャン」がおくびを洩らしながら黒縁丸眼鏡をクイクイ上げている。僕は「G」と隣り合って一番入口兼出口に接した場所に座布団を敷いて座りながら、会議が始まるのを熱望していた。やがて、「キイチャン」が厳粛な表情を浮かべながら口を開いた。
――唯今より、予は【 異端審問 】にかける者を発表する。その者は我等の信仰を陰で嘲笑い、国家権力の犬にアジトの場所を密告した者、罪を犯して処分されるべき者である。名は「G」である!
僕は驚愕しつつも、裁判にかけられきっと拷問される「G」の悲運を想うと、どこか喜劇的なクス・クス笑いが胸の裡で沸き起こるのでもあった。「G」は大阪の精神病院から脱走してきた僕と同じカトリックの洗礼者であった。友情、そう呼べるものは彼の中に見出しもする。だが一方で、彼の口があまりにも軽すぎるために、何一つ約束事を交わせないのでもあった。「G」は今から、【 異端審問 】にかけられ、処刑されるのだ!
――教祖「キイチャン」様、どうか私を赦して下さい!
「G」は鼻腔に左手の親指をねじ込みながら、馬鹿にしたように眼をオセロの急速な反転現象の如く白、黒させてそう絶叫した。やがて周囲で冷酷に彼の行動を監視していた幹部連中の中の、とりわけ筋肉質な二名の男が、「G」の上着を脱がし、シャツを引き裂きズブンを下ろし、下着もハサミで切裂いて全裸にした。暴れ出し手足を小犬のようにジタバタし始めた彼を、寄って集ってメンバーたちが取り押さえる。「キイチャン」は玉座の後方にある謎の蛇柄模様の鞄から電気按摩器を取り出した。僕はそれを見たとき、心底戦慄に襲われたことを今こそ白状しておきたい。
――異端者には強力な快楽を与え、精神を浄化させねばならん!予は人間の交接にこそ精神の研磨された至高性を見出す!
「キイチャン」はそう宣言すると、「G」の屹立してもわずか3センチにも満たない真性包茎ペニスに電気按摩器の最大出力による破壊的な電撃を与えた。「G」は【 異端審問 】にかけられ、浄化されたのである。教祖による拷問は一晩中続いた。「G」は無垢な赤ん坊のように「ホニャア!ホニャア!」と泣き続けた。
僕は早朝、蛻の殻と化した紅いテントの中で眼を覚ました。テントは一つだけ夏草の生い茂る緑の中に埋もれ、この一年誰かが侵入した形跡などまったく見当たらなかった。僕は木漏れ日を浴びながらイェイツの詩集のあのページを、最後の力を振り絞って開く。
《 寄って来ておくれ
小さい子供らよ
石なんかなげないで
わたしがぶつぶついいながら歩くからって
さあ哀れんでおくれ
モル・マギーを 》
テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
僕がネットの小説投稿サイトで出会った《白い蝙蝠》と、東京で出会ってから4日目、僕は彼女に「協調性の虚しさ」について特殊な教唆を受けもした。彼女の住む街から、わずか二駅ほどの地点にあるビジネスホテル(それは彼女が紹介した)で滞在する為の残金が少ないことを危惧しながらも、僕は文学的討論という名目を借りて「協調性の虚しさ」を厳しく教えられる。二人が出会うことを許している環境とは、専ら心理的な二人の閉鎖、内閉志向に来歴し、僕と彼女は社会から「引き篭もり」と嘲笑されるべきなのだ。彼女が僕の短過ぎるショートショートに感想を綴ることで、急速に接近した大江健三郎を、僕は彼女がそれらのショートショートに触れることがなかったとしても、彼女であれば接近したであろうことを感じるが。ジャンケンで『同時代ゲーム』を彼女に譲り渡したことを、僕はあれから一ヶ月経過した今となって、惜しいと残念がるほどに、もうこの作家の癖のあり過ぎる文体には近づけない己を見出す。それは、彼女が性的な文学というよりは、寧ろ夢野久作的な(僕はこの作家について何も知らないことを平気で、敢えて今彼のペンネームの後に「的」と付けた)幻想怪奇な文学に血縁を持っているであろうことを思い出すことに拠って、慰められ、わずかな優越感を取り戻しもした。これから僕が綴るのは、彼女が小説投稿サイトに投稿した最後の作品である『落夏』の、いわば迷宮的な構造を添加された裏返し=鏡像である。(迷宮的、という言葉でさえ、それを使用することを、僕は愛するボルヘスを安易に気取っている気がして罪悪を感じもするが)僕は、今となっては手紙もプレゼントの類も全て燃やし尽くした彼女に、「もう俺はおまえに何も謝罪しないのだ!」と意識の襞ひだをブワッと開闢しつつ、絶叫してみたいと思う。この恐らくはそれ程長くもないショートを、彼女が読みながら、僕に今更のように「吐き気」を憶えることさえ願って。
《白い蝙蝠》は、『アナルな姉妹の快姦私生活・・・。出前の男たちを引き込んで酒宴大乱交!日課は近親相姦レズフィスト!!』というタイトルを持つ、そのアダルトビデオのパッケージの裏を眺めながら、沈鬱な表情をしている。彼女と僕は今、東京のある街の、ひっそりと人気のない小径に面した黄色の屋根のアダルトビデオ・DVD販売店の内部に存在しているのだ。一日目、彼女が半ば華美で、女の子らしい可愛さを感じもする服装で身を纏って来たことを、僕は四日目の彼女の平凡で、どこか冷酷な姿とのギャップに、厭になっている。そのビデオは、二人の女が、四人の男とサンドイッチ状態で交接をしているまさにその瞬間の画像を、しっかりとパッケージ裏で宣伝している。泡塗れになりながら、シャワールームで、乳首と乳首を擦り合わせて、かすかに笑っている女たちの隣の画像は、騎乗位の体勢で、下から男に胸を鷲掴みされている、おそらくこの二人の内のどちらかの、険しい眼を細めた般若のような顔だ。僕が今、まさに手にしている『女子高生ザーメン奴隷2』のパッケージ裏は、中央に制服のまま精液を放たれた少女の、ほとんど顔は半分しか映っていない写真が貼り付けられており、表は両手首を赤い縄で括られた椅子に座る女子高生である。この女子高生は、しかめっ面をし、明らかにカメラの方へ淡い敵意を放っているが、全体的に顔が脂ぎっているようで、ウィンナーの焼き上がった表面の脂を、僕に想起せしめる。《白い蝙蝠》は、いつしか『近親相姦 息子の淫らな妄想に支配されていく母親』というビデオを両手でしげしげと覗き込んでいて、僕にその素早い手捌きを驚かせた。僕は彼女と同じようにして、『女性の嘔吐 THE LADY'S GERO』を手に取る。パッケージの裏には、おそらくは二度目に飲んだであろう自身の吐瀉物を更に吐いている女性の、風邪気味の小さい苦しみのようなそれなりに苦痛を刻んだ表情が貼付されている。この女は半裸で男に喉の奥を刺激されながら、ひたすら嘔吐を続けているようだ。全60分と記されているが、きっともっと長時間に及ぶものもあるのだろう。次に手にした『女の子のツバが飲みたい!』というビデオの裏には、全裸になった皺くちゃの老人が、女子高生二人に口腔から唾液を汁のように落としてもらっている写真が、合計四つの視点から撮影されていた。今、《白い蝙蝠》は『ぐそみるく』というビデオの裏を、やはり亡霊のような眼差しで見つめている。そこには、三人の男に肛門を向けられ、彼等の尻の下で彼等の肛門から出ている黄土色の糞便を舌の上に乗せながら、満面の笑みを浮かべている茶髪の若い女性が映っていた。彼女は活力と希望に満ち溢れたように耀かしく瞳を潤ませ、そのすぐ下の写真では純白のドレスに自らの糞を塗りたくって笑っている。美容液じみて、顔面に糞便を塗り、それを舌先でも舐め取る彼女の、あまりにも幼児的な、元気に溢れた表情に僕は首筋に小さい鳥肌が立つのを感じる。僕は『大観衆が見つめる中で初めての公開生うんち』の裏を眺めながら、今まさにスパゲッティを食べてきたばかりの、己の胃や腸の内臓的な具合について、多少の気味悪さを憶えもするのだ。
僕は《白い蝙蝠》にさりげなく、囁いた。
――大江健三郎にはラブレー受け売りのスカトロジィ気質があったけど、こういう店で何かイメェジを掴む訓練をしているのかな。
彼女は僕の方を振り向きながら、溜息を吐いた。僕は、彼女に嫌われ始めていることを知っていた。それは、二日目くらいから、彼女の死んだ視線を見ていると読み取ることができた。
――さあね。でも、独特だわ。
僕は彼女が少し微笑を洩らしたので、半ば安心して僕自身、歪な微笑を洩らした。
――この店に置かれたビデオに収められてる、ありとある糞や精液やゲロの類の総量は、きっとあの店長の百倍の容積があるなあ。
僕は無意味にそういって、自分ひとりで卑屈に笑った。店内には、素晴らしいほど夥しいアダルトビデオたちが、蜂の巣の一つ一つの小さい孔に詰まりこんだ幼虫のように敷き詰められている。それらの総体、純粋に性的な、あるいはまた倒錯的な、結局は購買者の自涜へ変わるであろう、この無機質なフィルムたちの洪水、と僕は心の底でクツクツ摩滅音を立てながら笑うことをする。社会的に労働する気力を持たないニートである僕と、学校教育に必要性を感じれない不登校の《白い蝙蝠》が、二人で自殺にまで走れないのは、文学があるからである。僕らは読む前にまず書き、書く前にまず読むことで、自殺や、狂気や、恋愛といった不必要な観念を排除する。僕が彼女に惹かれた最大の由縁は、彼女が「人は狂人を名乗るときその外部に位置する」ことを承知していたからである。僕の何の効力も無い定義に基けば、この世界には狂人は確かに存在しているのだが、それは自分を天使と信じ込める選ばれた天才を指し、残りの大半の努力家たちは、ひたすら病室で何かを演じ続けているのである。死を見つめる瞬間、決定的に我々が死の外部に位置することと同じことが、狂気についてもいえるのだと、僕は心療内科に定期的な通院を繰り返す《白い蝙蝠》の、おそらく僕より強度であろう狂気のレヴェルに嫉妬しつつ思う。
――もうそろそろ出ないか?ここは臭い。
僕はそういって、鼻腔の粘膜にへばりつく饐えたような、葉っぱみたいなかすかな臭いを入店した当初から意識していた己を再発見した。
――買わないの?ここに置いてあるこれら。
僕は今にも萎れた枯木になって床に倒れ臥しそうな彼女を、多少なりとも気遣いはしつつ、首を縦に振った。
――買っても一度観たら、捨てたくなる。
《白い蝙蝠》は「ああ」と大きな音を喉から立てつつ笑った。商品棚の隙間から、店長の貧相な長細い、しかし顕著に自涜経験が豊富であると解る猿みたいな顔が見え、僕は彼が僕らをずっと観察していたことを知った。きっと、あの店長は《白い蝙蝠》の細い指先を見て、その爪の中に垢が溜まっていないかを見る。もしも少しでも溜まっているならば、膨大な数のビデオを見飽きた彼の中で、爪の垢を強制的に喰わされるような、そういう変態的な妄想が、生まれもするのだろう、と僕は自分のことのように夢想して、小さく声を立てて笑う。僕はその時、不意に、ここが図書館の空気に近しいことを直感した。ここは、並べられた物がビデオであるだけで、後はもうそのものが図書館の静謐さを孕んでいる、と僕は断言してみせてもいい。ここで数千数万のポルノを眼にする生活をすることと、今の僕らのように、ひたすら文学的な高みを目指して受験生じみて本を読み、赤線を引き、小説を書くことと、いかなる相違があろうか?と僕は自問自答してしまう。僕は、自問自答の末に、やはりいつもの混濁した蜃気楼のような塔、その漏斗状化した地下の螺旋階段で蹲る。起床してすぐに聖書を読み、ご飯中は『ぐそみるく』を流し続け、ひたすら便座の上でも本を読み、太陽が沈むや否や錯乱を気取って狂的に書き殴る…、僕はそのような生活に憧憬を抱くほど、思春期的な呪縛を備えてはいない。僕は《白い蝙蝠》を愛していないし、好きでもなく、きっと嫌いでもないのだろう。彼女は、あまりに僕だ。三日目に彼女自身が口にした言葉を、僕は胸の裡で反復しながら、近親憎悪という言葉を穏やかに思い起こす。何故対面したのか?もう少し、ゆっくりと擬似恋愛に耽溺していれば良かったのに、と歯軋りしながら。
――最後の風景がここなんて、あなたらしいわね?
《白い蝙蝠》は侮蔑でも嘲笑でもない、圧倒的な他者に向けるべき無関心な微笑みを浮かべながら僕にそういった。意味も無く、僕は涙で眼を潤ませた。「ばいばい」「また会おうね」「さようなら」「大嫌い」「さようなら」「ばいばい」「また会おうね」僕はもうこれ以上、何を語る必要があるだろう?一つだけいえることは、僕と彼女には四日目など存在しなかったということだ。僕が《白い蝙蝠》を白い閨へと送り返し、掴み掛けた一握りの幸福を自ら棄て去ったのだ。一度も手を繋ぎ合わず、一度も愛という言葉を使わず、あれだけ口にした電話越しの擬似恋愛を焼却しながら。やがて、数年もすれば日記から《白い蝙蝠》の名は消失するだろう。僕にとっての初恋は、線香花火で白く焼かれた石の上で踊り狂う蚯蚓の、石の表面と癒着して引き剥がされた一枚の薄皮以下のものに過ぎなかったのだ。いわれた通り、僕は彼女の写真も縫い包みも「大好き」と記された手紙も全て燃やして僅かばかりの煤にしたのだった。これを書き綴ったことで、僕は逆説的に彼女の封印に成功したと悦ぶ。今、僕に見えている風景は、大江健三郎の情熱的で、内向的な核シェルターでも、アダルトビデオ販売店の無数に陳列されたポルノの山でもない。ボルヘス、彼の名が僕の新しく浮上した暗闇に光の陥穽を開ける剣となっている。願わくば、《白い蝙蝠》よ、君は幻想に逃れず、現実と対峙しながら、この僕を超克せよ!図書館に根を下ろしたまえ!宿命的に敵対せざるを得ない我々にとって、今立ち向かうべきこととは、幻想ではなく現実を疾走することである。僕は三日前、面接を受けた。君は、何としてでも卒業証書を手にせねばならない。僕に今でも苦痛と慈愛の双方を与え続ける君と、文学的な高みに存在する「海辺の街」へ向かうことを強靭に願って。テーマ:恋愛小説 - ジャンル:小説・文学
ある日、僕が玄関から一歩外に踏み出すと、一面がクマの縫い包みに覆われていた。雪のように、空の上からは絶えずクマの縫い包みたちが落ちてきた。僕はそれを大急ぎで家族に告げたが、彼らは「雨が降っているのだ」といって僕を無視した。ニュース番組でもやはり報道はされていなかった。幻視ではない、と僕は自分を慰めつつ、なぜクマの縫い包みが地上に降ってきたか、という問題について考えた。スウェデンボルグという神秘思想家ならば、このような状況を見て「天使が現れる予兆だ」という気がする。だが、一体それが何だというのだろうか?このふざけ切った、脱力さえ感じさせる満面笑顔のクマの縫い包みを、誰がどのように解説できるであろうか?絶えず上空からは雪のひとひらのように、大きさ30センチ前後の縫い包みが音も立てずに無意味に落下してくるのである。僕は何もカフカに登場するヨーゼフ・Kやベケットのゴドーを演じようとしているのではない。この子供の夢、子供のオモチャ箱をひっくり返したような光景が、不条理極まる!と絶叫したいわけではないのだ。ただ、「なぜクマの縫い包みが落ちてくるのだ?」と誰かに質問し、明確な答えを得たいだけなのである。その解答を得たからといって、僕は別にこの一連の不可思議な事象を書物の形態へ昇華する意志もない。蚊を叩き殺し、そいつが果たして血を吸っていたか、吸っていなかったかに関して複雑極まる哲学を引っ張り出すほど、僕は狂人ではないからだ。だが、全ての物事には必然性があることを僕は知っている。ここで僕は偶然性について定義しておきたい。それを定義するために僕は「ラプラスの悪魔」を引用しない。こう述べるだけで充分だろう。すなわち、「偶然とは高度な規則性である」と。だとすれば、今空から絶え間なく降り注いでいる縫い包みの山は、必然であり、因果律によって原因を特定することができるはずである。だが、僕には無条件的に結果が与えられているだけで、原因に到達するまでの初期条件が何もない。よって、ラプラスの言葉を使えば、僕は「無知」であり、従ってこの意味不明な縫い包み騒動は偶然である。原因と結果が結合していないからだ。だが、こんなどうでもいい偶然論を持ち出してきて何の意味があったろう?これが偶然とか、必然とか、そういうことは別にどうでもいいのだ。とにかく、僕はこれらを大量に降らしている者に、簡潔に「やるなら理由と手段を教えろ」と叫びたい。せめて「理由」だけでもいい。ソドムに落とした火柱ではなく、なぜわざわざ対象年齢6歳程度の玩具製品なのか?神がサイコロを振って、火柱ではなくこれに決定したのか?だが、アインシュタインはラプラスと同じく決定論者であって、サイコロによる偶然性までをも否定したことはいうまでもない。「神はサイコロ遊びをしない」のだから、これはきっと神の仕業ではなく、狂った米軍か北朝鮮軍か自衛隊の仕業である。機内から意味もなく大量のクマの縫い包みを捨てながら下で怒っている人間を見て大笑いしているのだ。僕はベケットを最近読んで好きになったので彼と照らし合わせるが、きっとベケットならこの状況を見て「おい、無意味に空からクマが落下してきたぞ?なぜ落下してきたのかって、考えている俺も無意味だな!無意味なことを、無意味な俺が考えても仕方ないので、今日は一日中これについて無意味に考え続けよう!なぜって、人生は無意味だからだ!」と真顔で唱えるだろうが、僕はそんなつもりはない。僕は正直、このような訳の解らないことが起きた時、吐き気を催す。明日は午前は快晴ですが、午後から記録的なクマの縫い包みが降り注ぐでしょう、などという問題が起きた時にである。だが、実際に起きたのだ。そして、僕は実際に嘔吐するほど猛烈な不快に襲われたわけでもなかった。気味悪いのは事実だが、数時間後には奇妙にも受け容れている自分を見出したのである。明日、もしもウサギの縫い包みが降り注いでも、僕はもう驚きはしない。だが、もしも金輪際一度もこのようなことが発生しないとなると、僕の態度は変わる。この日が神話化されるだろう。もしかすると、僕にとってクマの縫い包みがトラウマになるかもしれない。
外に出て街の中で一番高いビルディングへ向かった。僕はその屋上からも同じ光景を見出し、吐き気が最早消失されている自分を知った。下を眺めると自動車や街路の樹木や店頭のアーチに縫い包みがすっかり堆積しているが、別にもう怪しむこともない。それは数時間前から起きていたことだし、僕には今更驚愕して慌てふためく気力がない。とにかく、縫い包みはクマを模り、我々の街に降り注いでいるのである。これが事実であり、その他には何もない。僕の出番はここで終わる。語り手の僕という存在が持つ機能は、ここで終わる。だが、これを書いている「僕」は、ここで彼の語りを終わらせるわけにはいかない。物語になっていないからだ。このまま放棄すると、せっかくこれから登場させようとしている彼女が存在していないことになる。彼女というのは今後僕が歩道橋の上で出会う中学生である。「僕」は彼女にとりあえずBという名前を与えよう。そして、「僕」と僕ではややこしいので、物語の内部である僕は三人称視点でAとしてしまおう。今後はいわゆる神の観察的な視点から、AとBの対話が開始される。ちなみに、付記しておくが、Aは十七歳の高校生である。Aはカトリック系の進学校に通っているが、現在不登校である。説明としてはこれくらいで良いだろう。さて、物語を再開しよう。
Aはしばらくビルディングの屋上から空を眺めていた。そして彼はしばらくして、歩道橋の上に一人の少女が立っていることを発見する。彼女も先ほどのAと同じく上空を眺めていた。彼は歩道橋へ向かった。誰にも見えていないと信じていたクマの縫い包みを、あの少女は見ているのかもしれない。彼は強い期待と一抹の不安を混在させながら、ようやく歩道橋の上に辿り着いた。
――すいません。
Aはそういった。彼が少女を呼んだのである。何度も登場して申し訳ないが、ここら辺りは別に物語に重要な部分ではないので、省略しよう。Aは少女の名がBであることを知り、Bはクマの縫い包みではなく腐ったリンゴを目にしていることを知った。無論、彼らは互いがどこに住んでいるか、にまで話題を及ばせてはいない。
――すると、あなたと私ではまったく異なったものを眼にしながらも、やはり他の人間には見えていないものを眼にしている点で、一つの集団に内包されるべきですね。私はあなたのように可愛いクマの縫い包みの洪水を眼にしたかったです。あなたも厭でしょう?アダムの食べさしのリンゴが雨霰のように降ってくる様を眼にするのは。
――いや、別に何でもいい。ただ、俺はそれらがなぜ俺たちにしか見えないのか、という問題よりも、それらを俺たちに見せている者が、なぜそれらを俺たちに見せようとしたのか、という問題について知りたいんだ。仮に俺はこれを降らしている者を神と呼ぶことにするが、神とやらは何を考えているのだろう?誰かがキリストの生まれ変わりを強姦して、その腹癒せにこんなことをしているのか?
――いいえ、否定します。まず、これは神の仕業ではないと思います。私はプラグマティストなので、神は私が望む時以外は存在しないと定義されています。私はそもそも神の存在を望みませんし、不必要ですから、神は存在しません。あなたにとってこれが神の仕業であり、私にとってそれが誰の仕業でもないのならば、双方は矛盾しているのでどちらかが誤謬です。しかし、あなたは神の存在性を証明できないので、私が正しいということになります。だから、私はこれを神の仕業ではなく、天災だと認識しています。
――おい、ちょっと待ちたまえ。君は俺を笑わせるのが巧いな。こんな天災がどこにあるんだ?空から人工製品が降ってくるんだ。気象衛星の記録写真で拝見したいものだね、今の日本上空がどうのようになっているか。君はまだ農作物がじゃらじゃら降り注ぐわけだからそう認識できるさ。だが、いざ実際にクマの縫い包みが雪みたいに降り積もっている様を眼にしている俺の立場にもなってみたまえ。天災であるわけがないことを否応なく認識するはずだ。
――でも、私はあなたが嘘をついていることも事実を述べていることも立証できないのですから、自分の視覚を信用する以外にありません。意志と表象としての哲学ですよ、ショウペンハウエルの。私が主観的に判断したものが世界化されるんです。だから私にとって、あなたの見ている縫い包みは腐ったリンゴです。同じことが、当然あなたにもいえるわけですが。
――ああ、君がいっていることは解るよ。この場合リンゴでもクマでも良いのだ。双方に差異などない。我々の眼にしているものは単数にして複数の存在なんだ。だから、これらを眼にしている俺らにとって、リンゴとクマは交換することができる。眼にしているものを入れ替えたところで問題はないのだから。
――そうですね。今、あなたが表現した「単数にして複数の存在」という概念はコミュニティ理論で民族浄化やテロルを解体しようとしたデリダの弟子のナンシーが唱えた理論ですね。そうでしょう?
――ああ、そうだよ。俺自身で考えた、というよりも、他者の哲学を借用して現状を認識しようとした。でも、そもそも主体が他者に内包されているのだから、別にかまわないのだ。
――それは現象学的な用語を使うと間主観性という概念のパラドキシカルな応用ですね。他我も自我によって認識するのだから、結局間接的には自我の一部である、と。
――論題が脱線しているのに気付きたまえ!俺たちは今何をすべきか?
――無論、問題の解決を、ですね。
――ならば歩き出そう!ここで話していても重要な手掛かりは掴めない気がする!
――気がするんですか?断定はできないのですね。私はここで考え続けることが、解決に繋がると確信しています。下手に動いて労力を無駄にしないで下さい。肉体を運動させるより、思考を運動させましょう。もっとも、ニーチェは歩きながら思索した珍しい哲人でしたがね。
――拒否する。俺は第二の君を、つまり第三の俺を探してくる!
――なるほど。コミュニティを形成するわけですね。でも、私の推測では、あなたはエクセルでそれらをデータ処理し統計的なグラフを作成することしかできない。なぜなら、クマもリンゴもゴキブリも人間も精液も試験管も拳銃も原子爆弾もトイレの壁も隕石も宇宙も全て同一なものなのだから。あなたが例えば、空から滝のように飛行機が墜落している様を眼にしている人間をここへ連れてきたとして、彼が我々の問題の解決者になりますか?一億人の眼にするものがただ一つで表象されるんです。それがこの事件の本質的な問題でしょう?それなのに、あなたは動き出そうとする。私はここに哲学が参考書程度の智識としてしか機能していない愚劣な人間の行動パターンを抽出します。あなたは間違いなくここに泣きべそをかきながら帰還するでしょう。私が予言します。
――いや、それでも俺は仲間を探しに行く。後悔して思考の迷路、あのゴルギアスの結び目で足を取られるのは君の方だ。
――最後にもう一度いいましょう。ここで私と思考を続けなさい。あらゆる真理は椅子に座りながら解体することができるのに。
――さようなら、Bさん。もしかしたら、二度とあなたの顔は眼にしないかもしれない。
――残念ですが、ゴルギアスの結び目で躓くのはAさん、あなたの方ですわ。さようなら。
こうして歩道橋の上の議論は終わった。AとBは別れたのである。ここで、僕は今後もAに視点を固定させて観察を続けることを述べておきたい。ただ、AとBは永遠の別れを告げたのではないことをここで断言しておく。永遠の再会、すなわち輪廻の思想に基けば、永遠という言葉の後に別れが来ることは誤謬である。全ては巡る、やがてAとBは再度再会を果たすだろう。ただ、その時果たしてAはAであろうか?そうではない。AはCになっているし、BはDになっているのだ。無限に彼らは互いの眼にする非日常の差異について論駁し合い、一つの真理に収斂される。そして彼らは常にこう問う衝動に駆り立てられるのだ。「神よ、貴方はなぜこのようなものを降り注ぐ?」無論、解答など存在しない。動き始めたAの行動は正しく、行動しなかったBもまた正しい。この二人に差異などない。ただ、我々はいつかその理由が、神がそれらを降り注ぐ理由が解ると信じたいだけなのだ。今、僕は新しい語り手を書こうとしている。彼の名はAという。だが、彼が見ているのはクマの縫い包みでないことは今更いうまでもないだろう。
テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
昨夜、何時もと同じく電子画面と対峙して無気力にショォトショォトを綴っていた僕に、《 ポー 》から電話が入り、僕を驚愕させた。彼は中学時代、僕と成績に於いて壮絶に闘った勇士であり、京都大学に進学したものの母親譲りの鬱病を拗らせ、挙句休学している身であった。彼は幼少期から(幼稚園時代、僕は彼を小さ過ぎるジャングルジムから哄笑しながら突き落とし、厳粛な報復として鼻を蹴られたものだ)推理小説家を目指し、複雑極まる密室殺人の方法について、ノォトに書き込みを入れていたが、今想起してもあの文字は実に微小なものであり、顕微鏡かルーペで観察すべき豆粒じみた気違い沙汰であった。《 ポー 》は嫁入り前の田舎狐のような顔をし、細過ぎる眼と薄い唇と、異様に長い胴を備えていた。《 ポー 》の電話内容は明瞭且つ事務的であった。
――生涯学習情報センターを知っているだろう?あそこで君と久々に話がしたいんだが。
いうまでもなくその公共施設の図書フロアに於ける常連であった僕は、快く了解して彼が何かしら壮大な計画性に基いて旧友を召喚したのだと認識した。予備的な事柄かもしれないが、僕は今朝の朝日新聞の朝刊で「時計職人」を養成するアカデミーの広告欄に微笑を洩らしながら「手に職は素晴らしい」と感極まるほどに、小説家を目指して一年になる。投稿回数と落選回数が等号で結ばれる呪を文学の神から付与され続けし僕は、狂人的な勉強時間の結果入学したはずのカトリック系男子高校の、今尚伸び続ける偏差値の高貴さに僅かな自信と慰めを与えられる、火を見るより明らかな劣等生(不登校、という言葉に僕は未だに恋慕さえ寄せる)であった。尤も、僕は絶えずクラスメイトの合格通知よりも偉大な文学賞の受賞という栄誉に、負け惜しみにも近い憧憬を抱き続けて久しいのだが。《 ポー 》の名の由来は彼の自称に基き、鬱病を半ば文学的な資質として安直なナルシシズムに耽溺する傾向を持つ彼の、その生温い微笑にこそ僕は幼馴染としての連帯感のヴェールを覆い、目を瞑るべきでもあったろう。だが、偏差値こそ全ての人間を総体的且つ客観的に評価するシステムであるという邪教の徒であった僕に、《 ポー 》の優等生的な薄笑いは唾棄すべきものに映ったのも事実であると今となっては認めざるを得ない。
対面当日となった日は奇しくも僕が《 ポー 》を突き落としたその日にも増す雨降りであり、僕は徒歩20分の「ムーヴ21」(生涯学習情報センター)までヒヨコのような足取りで水溜りを避けつつ傘をくるくると回転させ歩行した。到着した入口付近に落下していた<神経病は君だけじゃない!!!>という圧倒的なゴシック体表記によるインパクトに横溢したパンフレットの切れ端を眼にし、そのふやけ萎れ水を吸った紙そのものの弱々しさに、<俺は精神的なアウトサイドに位置しない!!!>と内的に絶叫しながら微笑を浮かべもする。
だが、僕は二階図書フロアで《 ポー 》を眼にした時、声を喪ったというよりも、寧ろ哄笑の洪水を送るべきであったのだ。《 ポー 》は二人の、それもファッション雑誌を豪華に飾るべき同年程度の女性を、牝奴隷の如く傍に左右置いて、彼女らの尻を緩慢な動作で撫で擦っていたのだった。僕は明瞭に性的な革命的変貌を遂げたと思しき《 ポー 》の、その端的にその原因と判明できる類の事件を数十通り想像してから、けして容姿端麗とはいえぬ、寧ろこの少女たちの美学的整合とは対照的な彼の目立たぬ日本人特有にのっぺりとし過ぎたキツネ顔を笑いのめしたくて肩を痙攣させた。
――やあ!君が文学的に物凄いことをしようとしているという情報を俺は、君のサイトに掲載された小説を読んで直感したんだよ!あの下手糞な、読んでて大便さえ催す汚物たちを、如何に今後大作へと発展させるか、それを君と議論したくてね!俺は君が「鈴村王子」などと自称して、ネットの投稿小説サイトで見るに耐えない駄作を連続投稿していることも知っているし、君がそのサイトで出会った少女と電脳的擬似恋愛に堕ちて、複雑極まる「失恋」を経験したこともお見通しなんだ!さて、どこから君を文学的に拷問しようか?
僕は憤怒の念に全身の表皮を裏返された気持ちになるよりも、先ず彼のズボンのチャックが全開してその暗闇からジャングルじみた陰毛の密林が顔を覗かせている様を目の当たりにし、深甚な嘔気の小人どもに襲撃された。図書フロアの人気の少ない片隅で、天井から柔かく照らすライトを浴びた彼の臭そうな股間に、僕は彼の天才的な密室殺人の暗号碑文が隠されていることを知らない。僕はペンネェムを「鈴村智一郎」としていることを事実として認めても、断じて幼児的に「王子」などと発言したことはなかったし、何にも増して《 ポー 》が何故僕が「失恋」した当の本人であることを、本名を伏せているにも関わらず熟知していたのか、甚だ疑問に付すべき事柄でもあった。そこで、僕は彼の股間を観察しながら、微笑を浮かべて、続け様にこの二人の少女たちを交互に見やった。
――信じられないなあ。お前みたいな死んだ顔が、何故これほどの美女を一匹とはいわず、二匹も連れているんだ?俺はお前みたいな死んだ顔は、一生童貞を神聖化して影で死ぬほど自涜し続けるべき類の選ばれたトイレット・ペェパァ的人類だと規定していたんだがなあ。信じられないなあ!
彼は僕のこの優しい嘲笑を念仏でも拝聴するかの如く異様に神聖な眼差しで聞き惚れるや否や、肘掛け椅子に座ったまま左右の猿臂を伸ばして乙女たちの胸を兇暴に鷲掴みした。僕は彼のその行為に、得体の知れない魑魅魍魎の一種の穏やかさ、懐かしさの因子を掬い取って笑顔を浮かべた。女たちは子供じみたクス・クス笑いを続けながら、未だ嘗て耳にしたことのない信じられない程無機質且つ冷酷な声色で一言、「モット」、と彼自身の左右の耳に左右から囁くのだった。僕は彼女らのその涙ぐましい、機械化された悲哀の封入されし声から、有機的に構成されたサミュエル・ベケットの戯曲『ロッカバイ』のエロティックな反復的台詞である「もっと」「もっと」「もっと」…の無限に続く輪廻をトレースしたような感覚に陥り、恍惚し上気した頬を甲の産毛で冷却しようとした。僕は彼女らが《 ポー 》の妾ではなく、劇団仲間であろうことを直感した。そして、僕は《 ポー 》を徹底的に論駁し粉砕すべく、自作を寧ろ野風に曝し風化させんばかりの気迫でこう絶叫した。
――俺の作品が情けないことは作者である俺が濃厚に意識しているんだが、俺はお前のような死んでしまった顔が、モデル女を左右に置いて変態的な煬帝みたいな男に変貌していることを、今まさに文学化したくなったんだよ!お前をジャングルジムから墜落させて、お前自身の歯形を激変させてやった日を根に持って、今文学的な復讐を果たそうとしているんだろう?受けて立つぞ!俺はお前の果し合いに俺の文学的智識という二刀流を携えて受けて立つぞ!
右の、おそらくはフランス人を片親に持つであろうアルビノの如く蒼白なモデル女が、僕に接近して顔面に唾を吐いた。僕は鼻息を荒くしながら、鼻筋から唇へと滴る彼女の悪臭を放つ唾液を、熱い汁を舐め取るようにして舌先に乗せる。元の位置に戻って三人揃って僕を嘲笑している《 ポー 》の一族に、僕は『失楽園』冒頭のサタンの悲嘆にも類似した懊悩を顔中に滲ませて、「ありがとう」と囁きながら天使的に微笑した。僕が二刀流と表現した来歴は、書き且つ読む、ということをこの一年苦行僧じみて継続させてきたけして冷めることのない自負に拠る。
――お前の糞のような、或いは、より適切正確に表現すべきは恥垢じみた短すぎる作品群は、実に「情けない」と思っているんだよ、なあ「鈴村王子様」?お前がスウェーデン・アカデミーお墨付きの作家ばかりに目移りして、色気づいた衒学の極みを上昇している、いや、ニイチェぞっこんなお前からしみれば「下降している」のかもしれないが、兎に角その執筆スタンスが気に喰わなくてね!今まで何人中途半端に喰ってきたんだ?お前の文章を読んでいると、「あいつ」や「そいつ」の顔が絵に描く以上に眼に浮かんで仕方がなくてね!お前は購入してきたばかりのスピノザの主著なんかも、適当に赤線を引いて、常に「引用したいなあ!引用は頭が賢そうでかっこいいからなあ!」と歓喜の歌を口遊むのかもしれないが、逆だよ、逆!この、百年劣等生めが!引用は「情けなさ」の極地ではないか!なんて俺は幼馴染のお前に非礼にも罵声を浴びせたりはしないさ?俺はこれからもお前と付き合う大親友だし、この二人のclitorisがどんな法悦の汁を流すかも、二人で試すべきだと思っているんだよ。なあ、そうだろう?文学のprinceさま?
僕はそれでこそエドガー・アラン・ポーの直系の血族である彼だと感涙に咽びながら胸で十字を切った。彼の悦ばしく的確極まる文学的批評は、その解体のコードを精神分析学的な「マゾヒズム」――「サディズム」の二項対立と照合した上で、あくまで僕に「大笑い」と「自殺的苦悩」を与えるためにプログラムされていることを僕は無論察知している。僕の内部でプツプツと彷彿する怒気の湯沸かし器は、その漏斗状化した注ぎ口から紳士的な理性に溢れた安穏そのものを流し始めたことに僕は僕自身の「サディストではない男」としての悦ばしい烙印を見る。
――取り敢えず、性的な事情に関しては、俺は今から彼女たちを使ってそれを払拭することにしたいんだが!念の為に質問するが、彼女らは陰毛の処理をきっちり行っているのか?もしそうでないのなら、俺は一本一本デブの豚の屠殺直前の戦慄に満ちた寒イボみたいに、それをピンセットで摘んで抜き取りながら、彼女らの声色が艶かしい「もっと」に変容することを希求むのだがなあ!
左で茫然自失して直立する髪の毛が小麦色をした可愛らしい少女が、今度は僕の前方に歩み出た。彼女は大きく「ァーン」と開口して扁桃腺にぺったりと貼り付いた(おそらく《 ポー 》の亀頭を弄んでいる中途に付着した)濃い黒の縮れ毛を覗かせて、僕にも口を大きく開くよう目線とジェスチャァに拠って促した。ぱっくりと口腔内部を彼女の視界に広げた僕に、彼女は三歩後退四歩前進して弓なりに半弧を描きながら僕のキャッチャー・マウスへ唾と痰を吐き入れた。それらは一つの半球体であり、黄土色を帯びていたことを僕は確かに眼にした。
――お前は「言葉」の波及効果を何も理解していない。だから、お前はいくら本を読み、且つ書くことをしても、「言葉」に拒絶され続けるんだ。俺はお前が作家になる日を待ち望んでいるよ!
かつての旧友であり現在も類稀なる僕の先導者にして評論家である《 ポー 》はそう哀しげに呟くと、右のフランス女に目配せして肘掛け椅子から起立した。彼は左の小麦色の髪の毛をした可愛い女の腰に手を伸ばしながら、熱愛中の恋人を強度にその身体的動作から主張しつつ図書フロアを後にする。僕と残されし妖艶な微笑を柔かく浮かべるフランス女(僕はその時初めて、彼女の前歯が二本喪われていることに気付いたのだが)は、互いに互いを見つめ合いながら敵意ではなく同盟的な協調の色を放ち合う。それはたった今から動物的な交接を果たし合う者特有の厭に親密な睨めっこに相違なかったが、僕がこの糞のような女を抱くつもりが皆無であることは今更いうまでもないだろう。僕がこの女を抱くことをするのは、この女が《 ポー 》の亀頭の先端から流出し続ける膿のような灰汁を飲み干した、常に以後であり以前ではないのだから。僕が今飲み干すべき灰汁は、絶えず「言葉」の内部から栗の花の臭気を漂わせている、まさに僕が今手にしている「彼の」本ソレである。
テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
カトリック系神父様から『創世記』を手渡されて以来、僕は宗教講義の時間にそれを逆さまに読むことを続けている。第50章22節「ヨセフの死」からである。同じ章の26節で『創世記』は幕を閉じる。この4節から僕は物語の逆算的なアダムの系図に到る再構築を試みた。この時点で登場している人物は<ヨセフ>、<マキル>、<マキルの子供たち>、<イスラエルの息子たち>である。どうやら彼らはエジプトに暮らしているらしく、<ヨセフ>は老齢で床に臥しているようだった。<マキル>の父か、あるいは母かは解らないが、<マナセ>という人物も表現上ここに存在している可能性が大きい。<ヨセフ>はこういう。「わたしは間もなく死にます」、「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます」と。『創世記』の最後はこの<ヨセフ>に防腐処置を施し、ひつぎに納める場面で終わる。僕は次に、第15節から第21節に眼を移す。小題は「赦しの再確認」と記されている。ここで<ヨセフ>の兄たちが、かつて彼に悪を働いたということが告げられる。しかし、<ヨセフ>は来訪して謝罪する兄たちを赦し、「このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう」と涙ながらに語る。ここで僕は再度「ヨセフの死」の冒頭に眼を移す。そこには「ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み」とある。ここで僕は、あの正体不明だった<マナセ>という人物について、明瞭な輪郭を付与することができる。つまり、<マキル>は<ヨセフ>の兄の一人なのだ。<マキル>の父か母である<マナセ>という人物は、二人の親の名前である。次に僕は第50章第1節に眼を移す。第1節から第14節までの小題は「ヤコブの埋葬」である。「ヨセフの死」の中で、<ヨセフ>の言葉の中で登場していた<ヤコブ>という人物が、どうやらここでようやく登場するらしかった。確証はできないが、僕はこの<ヤコブ>が<ヨセフ>や<マキル>の祖父、すなわち<マナセ>の親であるように感じられる。だが、冒頭はこうだった。「ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした」と。ここで、僕は<ヤコブ>は<ヨセフ>の父であり、<マナセ>という正体不明の人物の息子である<マキル>が、実は<ヤコブ>の兄の一人ではなく別の人物だったのではないか、という疑念を抱き始めた。「ヤコブの埋葬」を読む限り、<ヨセフ>はファラオに近しい非常な財産家で、彼の父である<ヤコブ>の死も盛大な追悼式が催されたということだった。あまり必要性はないかもしれないが、この追悼された場所は「エジプト流の追悼の儀式」という言葉に因んで「アベル・ミツライム」と呼ばれるようになったという。そしてこのヨルダン川の東側にある地域で追悼を終えた<ヤコブ>は、葬儀に参加した家族たちとファラオたちのいるエジプトに帰ったという。第49章第29節の小題は「ヤコブの死」である。ここで<ヤコブ>は<ヨセフ>と同じようなことを彼らの息子たちに告げる。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる」と。おそらく<ヨセフ>と同じ老衰だったのだろうが、この父子が共に死を怖れない理由はどこにあるのだろうか?第49章第1節から第28節の小題は「ヤコブの祝福」である。<ヤコブ>の息子たちへの語りかけでここは構成されているようだ。ここでは悦ばしいことに、解り易く<ヤコブ>がいちいち自分の息子たちを名指しで語りかけている。息子たちを抽出してみると、<ルベン>、<シメオン>、<レビ>、<ユダ>、<ゼブルン>、<イサカル>、<ダン>、<ガド>、<アシェル>、<ナフタリ>、<ヨセフ>、<ベニヤミン>となり、おそらく生まれた順番に彼は呼びかけている。当然だが<ヨセフ>に対する語りかけが最も長く、<ヤコブ>は彼を「兄弟たちから選ばれた者の頭」と褒め称える。<ヤコブ>には予言の力があるようで、息子たちの将来について教えるのだ。ここで最も僕が愛着を抱いた息子は<ガド>である。彼は父にこう未来を教えられる。「ガドは略奪者に襲われる。しかし彼は、彼らのかかとを襲う」と。おそらく息子たちの中で最も簡潔に喜劇的な運命を教えられたのはこの<ガド>だろう。そして、僕は彼を襲う略奪者が<シメオン>と<レビ>の二人である気がしてならない。<ヤコブ>は彼らを「彼らの剣は暴力の道具」とし、更に「彼らは怒りのままに人を殺し」と嘆いた上で、「呪われよ」とさえいっている。この二人が略奪者となって、<ガド>を襲い、彼にかかとを襲われる可能性は無きにしも非ずである。第48章「ヤコブ、ヨセフの子らを祝福する」の第1節の冒頭を読んだ僕は、驚きのあまり短い声を立てた。そこに次のような一文が見受けられたからである。「ヨセフは二人の息子マナセとエフライムを連れて行った」と。僕は今まで謎のヴェールに包まれていた<マナセ>が<ヨセフ>の息子であり、<マキル>とは<ヨセフ>の孫であることを知ったのだ。再度50章23節に頁を捲ると、そこにはしっかり<エフライム>の名まで登場している。僕はこれを地方名に過ぎないとして無視していた己の浅薄さを羞恥じた。第48章は<ヤコブ>が病気であると告げられる場面から始まり、<イスラエル>という人物が<ヨセフ>に「間もなく、わたしは死ぬ」と吐露する場面で終わる。不思議なことに、この章では<イスラエル>は<ヨセフ>の父として語られていて、<ヤコブ>という名は冒頭で一度使われて以来、影を潜めていた。僕は<ヨセフ>の父が<ヤコブ>であることを知っている。だが、この章から奇妙にも、まるで<ヤコブ>には別の名前でも存在するかのように<イスラエル>と呼称されているのだ。第50章22節「ヨセフの死」に記されていた<イスラエルの子供>にも、やはりこの名は登場している。もしかすると、<ヤコブ>以外にも<ヨセフ>には別の父、すなわち義父がいるのではないか?だが、第48章の小題はあくまで「ヤコブ、ヨセフの子らを祝福する」となっていて、登場しているのも<ヤコブ>とみるべきなのだ。従って僕は現段階ではこのように仮定するのが適切だろう。すなわち、<イスラエル>とは<ヤコブ>である、と。これが誤謬である可能性もあるが、場面と人物の状況からして<イスラエル>は<ヤコブ>と原因は不明だが等号で結ばれると仮定するのが適切であるように僕には思われた。
――どうして君はそんな頁を開いている?そこは今日の授業範囲ではないはずだ。
第47章第27節「ヤコブの遺言」を読んで、僕は<ヨセフ>の父が間違いなく<イスラエル>である決定的な一文を発見するに至った。彼は「わたしをエジプトには葬らないでくれ」と訴え、「先祖たちの墓に葬ってほしい」と息子に語る。この先祖の先には、まだ口にすべきではない<あの人>がいるのだ、と僕は机の上で教鞭を蛇のように回転させる教師に心の中で囁く。第13節から26節は「ヨセフの政策」と題され、飢饉で苦しむ民に打算的な対処をする<ヨセフ>の姿が描かれている。第16節には「もし銀がなくなったのなら、家畜と引き換えに与えよう」という彼の商人としての姿が窺える。ここでもやはり<ヨセフ>はファラオに並ぶほどの権力者であり、その口振りは半ば高飛車ともいえる。第47章第1節は「ファラオとの会見」である。しかし、注目すべきであったのは、むしろ第46章第28節から始まる「ゴシェンでの会見」だった。ここで<ヨセフ>はまたしても策略的ともいえる発言をする。ファラオと会見する家族の人々に対して、彼はその会見がうまく進行するように、このようなお世辞を教えるのだ。「『仕事とは何か』と言われたら、『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください」と。この打算的且つ功利主義的ともいえる<ヨセフ>の詭計は誰の血を引く故なのだろうか?第46章第1節は「ヤコブのエジプト下り」と題されていたが、ここで僕はまたしても驚愕すべき事実を知った。<ヤコブ>とは、夢の中で<イスラエル>をそう呼んだ神に由来していたのである。第2節にはこうある。「その夜、幻の中で神がイスラエルに、<ヤコブ、ヤコブ>と呼びかけた」と。本来<イスラエル>であった男が、神に<ヤコブ>と呼ばれたことによって、そう名乗るようになったのだ。ここでようやく、僕の頭の中で<ヤコブ>=<イスラエル>という図式が保証された。「ヤコブのエジプト下り」には<ヤコブ>の子供の名を列挙している。ここでは、先に述べた子供たち以外にも、<ペレツ>と、<ディナ>という娘の名が記されていた。<ヤコブ>は子沢山であるわけだが、妻は<ラケル>、<レア>、<ジルパ>、<ビルハ>の四名で、家族の総数は七十名ということだった。しかし、僕はこの非現実的な家族構成を哄笑したりはしない。僕が哄笑すべきは、全ての先祖に位置する<あの人>の名を発見したその時なのだ。そして、それは喜悦と感涙の哄笑である必要があった。第45章「ヨセフ、身を明かす」において、さりげなく<ヨセフ>の兄たちが彼に働いた悪を彼自身が語っている。彼は兄弟たちに「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と語り始める。そして彼は父<ヤコブ>=<イスラエル>宛ての伝言として、彼らに「神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました」と告げている。<ヨセフ>が権力者としての威厳を持ち、ファラオと対等であるかのような言動をしていた理由を僕は知った。神が、<ヨセフ>を全エジプトの主と定めたのである。
不意に僕は教室の空気が死んでいることに気付いた。無人化していたのである。僕は本を閉じて鞄に収めると学校を後にした。街には学校と同じ空気が流れていた。僕は中央公民館の硝子扉を割って中に入った。【 影 】が僕を笑っていたのである。僕は戦慄と動揺とそれらを凌駕する好奇心に駆られながら【 影 】を追った。やがて螺旋階段の一角で僕は彼に問い詰めた。
――どういうことだ。何故人間がいなくなった?
【 影 】は無機質に茫然と返答した。
――知りたければショッピングモールへ行け。
僕は彼をそこに残し、即座に走り出した。途中、僕は疲弊し、第44章第18節「ユダの嘆願」と第1節「銀の杯」をベンチで読んだ。不安は掻き立てられた。<ヤコブ>の末の息子である大食漢<ベニヤミン>、晩餐で彼は他の者の食事量の5倍を胃に収める。<ヨセフ>の長男である<マナセ>が「忘れさせる」という意味であること、エフライムが「増やす」であること、ファラオの夢に登場した「一本の茎から出ているとてもよく実の入った7つの穂」を、魔術師たちは解釈できなかったこと、<ヨセフ>が夢の解体者であること。
ショッピングモールは全ての街路に並ぶ店と同じく閉鎖されていた。僕は同様の手口で中に侵入し、人間を求めた。髪の毛が雪色をした一人の少年が片耳のない兎の縫い包みを抱きながら泣いていた。僕は彼の涙を拭い、頭を撫でながら尋ねた。
――君は<あの人>を見たか?
少年は左の義眼に無機質な虚無感を滲ませながら返答した。
――塔で見たんだ。
僕がどの塔かと質問すると、彼は第11章でシンヤルの地に築かれたあの塔の名を口にした。僕はエスカレーターで3階の書店へ向かった。『創世記』において、<ヨセフ>とは<ノア>であり、<あの人>なのだ、と僕は何者からか啓示を受けるように思案した。<カイン>が彼を殺す者は七倍の復讐を受けるであろうと主に告げられるとき、その数字は天地創造までの日数を反復する。ソドムの民は皆<ノア>の子孫であり、洪水前の地上は滅亡前のソドムの反復である。逆さまから読み始めることによって、『創世記』に登場する全ての事象が輪廻していることを僕はその時初めて悟った。ギリシャ語でένεσις(根源=ゲネシス)を意味するこの壮大な物語は、子供でも親しめる普遍なる童話としての仮面ではなく、永劫回帰説を具現化した世界最古の類稀なる思想書としての素顔を持っているのだ。第50章に「天地の創造」があり、第1章に「ヨセフの死」がくる時、『創世記』はその名を捨てて目まぐるしく回転する光の《輪》を映し始める。
聖書を題材にした絵画展は無人だった。画廊の深奥には蝋燭が二本立てられ、周囲一帯には銀のラテン十字がアスファルトの床に散在していた。ピーテル・ブリューゲル及びギュスターヴ・ドレの『バベルの塔』が二枚隣り合って掲げられていた。背後で少年の声がした。
――気付かない?塔の上に<あの人>がいる。
僕が一驚して彼の指差す部分を見ると、二枚の絵画の上方から黄金色の光が眩い恒星の如く燦然と降り注いでいた。次に僕が目を覚ましたのは、何時もと変わらぬ教室の片隅だった。僕はカーテンから差し込む黄昏の陽を、遥か昔どこかの平原で眺めていたような気がした。園の東に立つケルビムに、善悪を知った妻と天地創造以前の歴史を教わりながら。テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学
プロフィール
Author:鈴村智一郎
「世界には、お前のほかには誰にも歩きえない唯一の道がある。それはどこへ通じているのか?
たずねるな、その道を歩け」
by Friedrich Nietzsche
1986年8月21日生まれ 獅子座寅年
大阪明星学園高等学校卒業
16歳の不登校時代、運命の書『Also sprach Zarathustra』に遭遇し、ニイチェ哲学の絶大な影響を受ける。
卒業後、18歳の夏、ヴァン・ゴッホの魂を求めてアルル、マルセイユ、ニーム、パリを漂泊する。
以来、大江健三郎、セリーヌ、ベケット、シモン、ボルヘスを吸収しつつ独自の文体理論の構築を目指す。
《狂愛図書》
〜各作家から厳選して一冊推薦するなれば〜
大江健三郎 『みずから我が涙を拭いたまう日』
セリーヌ 『虫けらどもをひねりつぶせ』
ベケット 『ワット』
シモン 『ファルサロスの戦い』
ボルヘス 『創造者』
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
ブロとも申請フォーム
この人とブロともになる
ブログ内検索
リンク
このブログをリンクに追加する